またたび感想録

観たもの聴いたもの読んだものの感想を述べます。

『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』

3月16日に公開する映画がロケ地の江南でお披露目先行上映されるということで、当日券で観た。

監督は井上淳一氏。

 

名古屋駅の新幹線口を抜けた繁華街にシネマスコーレという小さな映画館があり、そこが開業した時の話。

映画監督・若松(井浦新)が、自分の映画を上映する映画館を作るために名画座の営業だった木全(東出昌大)に支配人を依頼し、シネマスコーレが開業する。

愛知学院の映研の女学生・金本(芋生悠)が映画館のアルバイトに応募してきて、映画監督志望の高校生・井上(杉田雷麟)も映画館をたびたび訪れる。

 

映画に生きる人々のワンシーンを切り取ったような作品で、自称文字書きとしては映画作るのって大変だなあ、チームプレイを好き好んでしなきゃできないなあと思ったりした。

この映画で見せてくるチームプレイというのは、空気読んで仲良しこよしではなく、我が我がとどんどん出ていき主導権を奪い合う場面があり、いい画を撮るために邪魔なものには邪魔と容赦なく言い放ち、役者の機嫌をとりに行く、それでいて瓦解せず映画を作っていく集団だった。観ているだけで心臓が縮みそう。しかしながら、現代ではもはやお目にかかれない空気を味わえる。

この間職場でやくざみたいな人に電話でめちゃくちゃ怒られて、この映画のことを思い出して、感想を書くに至った。

数十秒続く怒鳴り声を聞きながら「あ…言うべき言葉がごめんなさいしかない…」と分かった時の絶望感と怒り。相手に「ごめんなさい」以外の言葉を許さない話し方っていうのが存在するんだなと身をもって体感した。ああ、パワハラ上司ってきっとこういう喋り方するんだろな…と。

若松監督は言葉が乱暴なだけで理屈は通ってて、よほど真っ当だけれども。熱量には通じるものがあった。

 

芋生悠演じる金本は、主な登場人物の中では唯一モデルのいない人物。当時の映画制作は男性社会で、金本が映研の他の男子学生のように振る舞って映画を撮ろうとしても誰もスタッフが集まらない。唯一来た先輩に「一回抱いたから来たの?」と言ったり、東京で打ちのめされた井上に苛立ちからキスをして挑発したりする。さらに彼女が「在日」であることも描かれる。

金本は作中で才能のなさ、女であること、在日であることを三重苦だと語っている。映画が撮りたくて映研や映画館に出入りしていて、男性のように振る舞っても人は集まらず、苛立ちから女を使う。日本で生まれ育ちながら、外国籍を持つ人物としての側面も描かれている。16歳になると指紋の登録をしないといけないし、本名で暮らしてもいない。

監督は自分が男性であり、日本人である(しかも実家は裕福で成績も優秀)ことで下駄を履かせてもらってきたと感じていて、その対照として金本を描いたという。

やくざみたいな人に怒鳴られたのも、外国籍の人の依頼に関わることからだったのだけれど、思い返すと外国籍の人がこちらの話す日本語をほとんど理解できていないようだった。向かい合った時点で私は日本語話者という高い下駄を履いていて、それに無自覚にカウンター向こうのお客さんと向き合っている。お客さんはカードという単語を聞き取ってよく分からないままカードを出し、希望する書類は出せないことがうっすらと分かるのだろう。その一方通行さは暴力的だ。携帯会社や保険会社の圧倒的な情報量で蹂躙してくるあの感じが私の想像しうる一番近いイメージだけれども、重ねて理解できない言語でそういう類の不安感を与えたのだと思えば、こちらもまた一方的に怒鳴られても仕方ないよなと思えてくる。

外国籍の人に無自覚に無造作に接して、傷ついていたということを彼らに近い日本人から激怒して伝えられるということが社会人になってから3回くらいはあった。怒る人がいるから気づくだけで、何も言わずに傷ついている人の数を想像するとぞっとする。

 

金本というキャラクターは、そういう日頃の無自覚さを照らす役割も担っている。周りは「別に何もしていない」のに、傷つく人がいるという事実がある。なぜ傷つくのか、理由は十人十色にあって、どうにもならないことも多いんじゃないかなと思う。最近よく配慮とか特権とか言われて息が詰まりそうなんだけど、自覚してない罪を糾弾されてる感じがしてしんどい気持ちは正直とてもある。

ただ、糾弾してくる相手は「お前のしんどさなんかどうでもいい、こちらの話を聞けよ」という切迫した思いで攻撃に来ているのだとも思う。人が安穏と暮らしているところに攻撃しにいくわけだから、それなりの批判や抵抗も覚悟しないとできないよなと想像してみたりする。そこまでしてしまうほど、追い詰められてるのでは、と思う。

攻撃には理由がある。それがいかに歪な出力だったとしても。他人への配慮なんて余裕のある人間だけができる話で、その余裕の定義もひどく曖昧だ。

 

自覚できないのはどうしようもないことだ。

数十年しか生きていないただのいち個体が、そんなちゃんとしてたら怖いじゃないか。

殴られてから「あれ、なんで自分今殴られたんだろ…殴られんのやだな…」と考えはじめるくらいの呑気さがないとやってらんないなと、申し訳ないけど今のところ思っている。

なんなら余裕がなければ殴られたことに怒り狂ったり一生許さなかったり反撃したりもしかねない。そう思うと殴る方もやっぱりリスクを負っている。

争いになればまだましで、一発殴って「ハイ傷害罪」ってそのまま風化することも多そう。

最近よく下駄論に遭遇するのだけれど、私はとりあえず「どうして殴られたんだろう」って考える方向性で行けるところまで行こうと思う。

 

劇中の井上青年も金本にビンタされてなんか思ったんだろうなという流れがあったし、常人にはこのあたりが落としどころではないかと思う。

 

この映画の感想を聞くと自分語りが始まると監督が言っていたけど、確かにわが身を振り返るような、わが身にリンクさせるような見方をしてしまう映画だった。

シネマスコーレで観るのも情緒あっていいかも。