私は前にこの話を本当に読んだのか?と思いたくなるくらい、知らない描写が現れてきて戸惑った。
再読、『タイムスリップ・コンビナート』。
この話は「私」が自宅のある都立家政駅から海芝浦駅まで行く物語なのだが、途中で降りたり乗ったり待ったりと結構さまよっている。
そもそも海芝浦に行けという電話の相手も誰だか分からなければ、電車に乗り合わせた女の子たちの会話も意味不明であり、幼い兄弟たちの行方も分からず、夢の中の小説もマグロへの恋も何ひとつ分からないまま、海芝浦駅に到達して物語は終わる。
それはやっぱり、最高だ。これがいい。これじゃなきゃ。
この当たり前に存在する世界とかいうものの分からなさを肯定してくれる気がするのだ、この頃の彼女の書く小説は。
かつて学生の頃の私は、彼女が言語でこのほんとは訳の分からない世界を再構築していく様に憧れたけど、それはつまり多分、ピカソのしてることと一緒だと思うのだ。
この物語でも「私」は体感を重視する。実感として分かるかどうか。過去は感触と共によみがえり、それだけが現実感を伴う。幼い頃のチョコレートの感触が、今の「私」がチョコレートを買った前後で蘇る。
それだけがほんとうにあったことだからだ。
なんて断言なんてできないくらい、彼女の小説は分からなくって、その分からないところがどうにも好きでたまらなくて、結局私は生涯彼女の書くものを理解なんてできないんだろう、こんなに好きなのに。好きなのに理解できなくていいなんて。理解できないところが好きだなんてそんなことがあっていいのか。いい悪いじゃなくて、そうなってしまっているのだ。
しかしそれにしても、だいたいのものは理解の外にあるのかもしれない。
分かるように見えても分からない。
分かるように作られたものとかは存在するけど、全部は分からない。分かるように見せかけて分からない。分かってるように思っても分かってない。
分からなくても、その中を無様に泳いでいく。
だから一生飽きないだろうなと思う。
何もわからない、が唯一の事実じゃないか。