またたび感想録

観たもの聴いたもの読んだものの感想を述べます。

カミュ『幸福な死』

カミュの『幸福な死』を読み終えた。

第1部は随分前に読んでいたのだけれど、第2部に取り掛かるまでに間が空いてしまった。しかも第2部を読むのにものすごく時間がかかった。

カミュは『異邦人』『ペスト』『シーシュポスの神話』と読んできて、『幸福な死』は私の読んだ4つめのカミュ作品ということになる。

私にはカミュ作品を語れるほどの理解や知識がないと思うけど、カミュの作品は好きなので、現状できる限りの言語化を試みようと思う。

 

『幸福な死』はカミュが生前発表することのなかった作品で、文章もいくつかある下書きや日記などを参考にして組み立てられているらしい。

なのでこれまで読んできた他のどの作品よりも、読みづらい気がする。のだけれど、その文章の源泉、沸きだすばかりでとりとめのない中に、カミュの書きたいものを見てとることができるような気がする。世界観はカミュなのだと思う。

 

訳者あとがきのところで、『異邦人』『幸福な死』の主人公がつきあう女性を「外観的」にしかとらえないという指摘があった。自尊心を傷つけられたくないという思いがあまりにも強く、他人に踏み込まず他人にも踏み込ませないという態度で世界を構築しているらしい、と。

これはなかなか腑に落ちるというか、カミュ作品を私が魅力的に感じる理由かもしれない。主人公の主観で描写される世界は、他人との関わりが必要最低限というか、表面的というか、深入りしなくて、ひたすら自分の内面世界に没頭している様になにか心地よさを覚える。

わたしたちは生活のために世の中と連帯するけれども、そこになにか理想や期待を持つとひどく傷つくことがある。存在する他者はそれ以上でも以下でもない。他者は他者の世界の中で自分以外と連帯するけれども、その方針が他の他者の意向に沿うとか考えが一致するとかそういうのは奇跡みたいなことだ。

これは悲観じゃない。事実だ。

私に私の世界観があるように、他者には他者の世界観がある。それは同じ世の中を生きていながら、驚くほど、時に理解し難いほど違うというそれだけのこと。

カミュの作品を読んでいると、そういう他者への過度な期待にむだに傷ついたり苦悩したりしてないところがとても心地よいのだ。違ってあたりまえ、というか、あなたと私はぜんぜん違うよね、という共通認識がある世界が、カミュの世界だなあと思う。

 

ただし『異邦人』や『幸福な死』の主人公はあまりにも自己に没頭している。他者をしゃべる背景としてしかほとんど認識していない。他者と自己との交流はほとんど望んでいないように思われる。

こういう人は現実にもいる気がするけど、この場合しゃべる背景としてしか存在していない他者に存在価値はあるのだろうか。おそらく、その人の世界には他者は必要ないのではないだろうか、という気がする。

そういう他者と関わるとき、自分は何を思うだろうか。と考えたりする。

 

そう思うのは、世の中の受け止め方の差なのか。

生活のために世の中と連帯している私は、ノーサンキューと大声で喚きたいくらい、ひたすら他者の世界観からやってくる他者の言葉による干渉を受けまくる。

それについて考えたり、受け止めたり、ごくたまに反論したりしながら、物事を処理していく。

他者の世界観からやってくる言葉は向き合ってみるとものすごく興味深くて、私は文句を言いながらも、そういうのを読み解く作業が嫌いじゃない。嫌いじゃないので、他者と断絶しているような人をみると、興味しかないのだ。この人はどういう世界観をもってここに存在しているのだろうか、という意味合いで。

興味を持ってしまうが故に、時々不安になる。この人の世界に私は永遠に存在できないのではないか、と。一方通行の寂しさがふとよぎる。

そしてそれはたぶん、ネコを構うヒトの心情に似ている。だから大して考えるほどの問題ではないのだと、そんな気がする。

 

カミュの話のような、違うような。