11/16 気が変わったので大幅修正。
『風の歌を聴け』を読んだ。
村上作品を読むとどうにも満たされない気持ちになったものなのだけれど、そういうある種のさみしさがなんなのかが少し分かるかもしれない1冊。
この作品の主人公は、大学生の夏休みに地元に帰ってきて、「鼠」や「小指のない女」と共に時間を過ごす。
過ごすんだけど主人公は、相手の抱える事情に踏み込むことをほとんど拒否している。
物足りないなー、相手が開示しようとしてるんだからもっと踏み込めばいいのにと思うけど、この主人公は、踏み込んで話を聞いたところで彼女のことを理解できないと分かっていたのではないだろうか。
作中に印象的な語りがあった。
3人目の彼女が自殺した理由は、多分彼女自身にも分からないんじゃなかろうか。と。
自分の考えてることだってよくは分からないのに、他人の考えてることなんてなおさら分からないよな。
それってちょっと救いかもしれない。
分からなくても、どうにかこうにか生きていくんだよなあ。
踏み込んだところで本当には分からない。
けれどもなぜだか共存はできる。
それっておもしろい。
鼠は10年後も、クリスマスに主人公に短編小説を贈ってくるのだという。
小指の彼女とは二度と会うことはなかったらしい。
そうやって、なんか不思議と。
特別こだわらなくても、切れたり繋がったりしていくもの、だよなあと。
鼠が事故を起こさなくても、二人は友人になったかもしれないし、小指の彼女の話をそらさなくても、彼女は去っていったのかもしれないし。
そう、だからたとえば私がなにか失言をしたとしてもそれが直接の原因じゃなくて、うまくいかないことには単独じゃない原因が多分あって、逆もまた然りなのだろうと思う。
そうやって一切があいまいなままに過ぎ去っていく、そういうものなのかもしれない。
それもいいじゃないと今日の私は思うのだった。