またたび感想録

観たもの聴いたもの読んだものの感想を述べます。

カフカ『変身』再読

カフカの『変身』をふたたび。

主人公が朝目覚めたら巨大な虫になっている、かの有名な『変身』なのだが、少ないページ数で読者に与える衝撃は絶大だと思う。

 

主人公グレゴール・ザムザは、家業に失敗して借金を拵えた両親と妹のために5年間外交販売員として朝から晩まで働き詰めの毎日を送る。

妹を音楽学校に入れてやるというささやかな夢だけを楽しみにして生きてきたグレゴールは、ある朝目覚めたら小さな足がうじゃうじゃと生えた巨大な虫になっており、家族に言葉を伝えることも叶わなくなった。

家族はグレゴールの代わりに現れた巨大な虫を直視したくないほど忌み、妹はかろうじて食事や掃除の世話をしていた。

 

グレゴール自身も漏れ聞こえる家族の会話を聞きながら、だんだんとその思考回路は虫に近づき、人としてのあり方を忘れていき、家族にもういなくなってほしいと願われたそのあくる朝に死を迎えた。

 

グレゴールという人物にとってはひとつの救いもない話で、ただ彼の死そのものが遺された家族に未来を与えた。

 

初めて『変身』を読んだあと、『城』と短編集を少し読んでから戻ってくると、うわあカフカだなあと思う。

衰えていくこと、死んでいくことそのものに救いはないというのは事実で、衰弱は衰弱で、死は死だ。

カフカはそういう事象への受け止め方が極端に…潔いと言えばいいのか、冷笑気味というのか、からっと残酷に仕上げてくるところがある。

その潔さが私は好きなような気がする。

 

カフカの書く人物は、苦悩を共有してこない。

登場人物の苦しみは、彼らの中でひとしきり暴れ回って自己解決していくか、作中でぐるぐると喧嘩になるか、読者の眼前をただ通り過ぎていく。

苦悩はその人だけのもので、はたから見たらちょっとした喜劇にさえなる。

この読者との距離感が絶妙なような気がする。

翻訳が入ることでそういう感触になるのか、第三者の語りがそうさせるのか、傍観させてくれる作品だなあと思う。

 

小説は創作であればこそ、救えるし、楽しくできるし、幸せにもできる。それは小説の効用だ。

死を死として、衰弱を衰弱として、辟易を辟易として描くことになんの意味があるだろうか。それは現実を写実するのと同じなのでは、とはたびたび考えてきたけれど。

人は自分の人生しか生きられないという事実に立ち戻れば、それを書く意味もあるんじゃないかなと最近はちょっと思う。

生々しい誰かの生を、物語としてふるまう。読んだ人間はその生を追体験できる。カフカの作品ならば「目撃」と言った方がいいかもしれないけれど。人は自分の人生しか生きられない…創作に触れないならば。

そういう風に作られたカフカの『変身』はおもしろい。ならばそれは小説が果たせるひとつの役割なのだろう。たぶん。

 

9/2追記

やっぱりカフカの『変身』で主人公がなる虫というのは、病人とかの比喩なんだろうなあと。部屋に閉じ込められ、身体は思うように動かず、意思の疎通も図れない。

これは一般的な「闘病もの」とか「家族の話」とはまったく趣の異なるでもそういう類の話だ。

カフカは自分が早いとこ病気で死にたいと若い頃から渇望してたらしいので、この一家の話が作れたのだろうか。主人公も仕事への復帰を当然のように考える場面はあるけど、死への恐怖とか抵抗はそういえば示さないんだよなあ。

 

カフカがどうしてそんなに若いうちから人生に倦んでいたのかが分からない。

それが分からないと、カフカをこれ以上読み解くことは難しい気がするのだ。だってそれがこの作家の人生哲学で、作品の核なのだろうから。

カフカがどういう人なのか知ると、自分と全然違う価値観を持って生きた人を知ることができそうな気がする。