またたび感想録

観たもの聴いたもの読んだものの感想を述べます。

シュルレアリスムと、たたかう作家のこと

夏季休業中につき、本が読める本が読める本が読めるぞー(やかましい)どこまでも無責任な散らし書き。

 

笙野頼子「小説神変理層夢経猫未来託宣本 猫ダンジョン荒神

巖谷國士シュルレアリスムとは何か」

 

今年の春にミロ展を見に行ったんだけれども、謎生物が散りばめられた謎空間に「なんだこれはなんだこれはなんだこれは」と言いまくって終わった。

シュルレアリスムが分からない!

というわけで入門講義と銘打った文庫本を一冊読んでみたのだ。が。

 

シュルレアリスムは自動記述に端を発する。

この自動記述というのは、考えてから書くのではなく、とにかく一定のスピードでただ手を動かすといったものらしい。

かなりのスピード感で書かれた記述からはやがて主語が消え、昔語りをやめ、現在や未来がどこかから語られ始めるという…

想像以上にミステリアスな世界だった。無意識の領域に突っ込んでいく印象を受ける。しかも絵画でなく文章から始まった試みだったとは。

 

そのように客観で並べられた(と巖谷氏は語るが、この辺りの客観の意味合いってよく分からない)文章、並べられたオブジェクトを作品にしているらしい。

 

並べられたオブジェクト…

ミロさんのこういうのとかかな…

f:id:matatabitokuma:20220924115027j:image

 

意図的でなく、無意識の領域から言葉やイメージを引き出してくる感覚って、やったことないけど神おろしっぽいなあと思ったりした。トランス状態っていうのかな。実際に実験したブルトン氏も頭がおかしくなりかけたと言っているらしい。

 

ここで我らが巫女作家笙野氏が脳裏をよぎった。

(作家と作品を混同しない)

(作家と作品を混同しない)

彼女私小説作家なので、混同しがち。

「猫ダンジョン荒神」の作中人物は、生きづらさから活路を見いだすために、老いた猫家族との最期の日々を穏やかに過ごすために「荒神様」を選んだ。

 

作中では何度も原稿のデータの中に神様が降臨して、勝手におしゃべりしてまた去っていく。

彼女は金毘羅を称し、神話から消された神様を拝む。

 

笙野氏の作品は、金毘羅を自称したり、神話から消された神様を祀ったり、ということがよくある。作中人物が生きていくのにこの社会はいろいろな不都合がありすぎて、既存の神様(天孫系ってよく言ってる気がする)には全然祈りたくなくて、神話に消された神様たちの物語を拾い集めて再構成していくことで、ようやく祈れる神様を見つけたりする。

 

シュルレアリスムの説明を読んでたら彼女の作品群のトランス感をどうしても連想せずにいられなかった。

書いているものがトランス状態で見た世界っぽくて、いや、それが意図的なのかどうかがシュルレアリスム作品になるのかどうかって話になるのかなあ。

そのトランス状態めいた視点で描かれる世界がたまらなくおもしろいと思っている。

 

読み解きたくて読み解けなくて早10年、シュルレアリスムは笙野作品を読み解くキーワードのひとつになりうるのだろうか。

なんか近そうな感触はあるんだけどな。