またたび感想録

観たもの聴いたもの読んだものの感想を述べます。

紺野アキラ『クジマ歌えば家ほろろ』1巻

2冊目。

「クジマ」と名乗る全長180cmのペンギンのような形をした鳥が、冬の間ロシアから日本にやってくる。同じ種族の仲間は人目を忍んで森深くに暮らし、冬にはロシアから日本にやってくるらしいが、クジマは仲間とはぐれてロシア人に育てられ、今回が初めての渡りだったらしい。

全部クジマの証言による。

食べるの大好き、楽しいこと大好きなクジマが、浪人生を抱えて重苦しい雰囲気の家庭に住み着き、なんだかどことなく家の空気が和んでいく。

 

ホームドラマに謎生物が干渉しているような造りのお話。クジマはホームステイに来た片言をしゃべるおちゃめな外国人の雰囲気で、たまに大声で鳴いたり泳いだりして野生に返る。

 

謎生物が出てくる日常ものっていいよね。

最初は読者もクジマを警戒する。フリーレンで「異形が人の言葉を話すのは、ただ人を食うためだ」って言ってたのを思い出してしまったりして。

ただクジマが日本の暮らしを楽しんでいるのを眺めていくと、1巻が終わる頃には「楽しんでってね…!」と警戒が解けてしまう。

クジマは自由で脱力してていい感じだ。ロシアでも大事にされてたんだろうなあと想像させる。

謎生物を囲む生活は、定型の日常からどこかずれてきて、それを受け入れていく家族の空気感もいい。

林史也『煙たい話』1巻

年に1回くらい、直感で見知らぬ漫画を何冊かお持ち帰りすることがある。今日はそれだった。

これまでも至高の餅SF漫画『プリンタニア・ニッポン』やひとりたちの集う『ふきよせレジデンス』を発掘してきた当企画。自分の自分による自分のための選書。選び取れ今の私の至高の一冊。

 

戯れはこの辺にして、今回も1冊目からいい感じ。

『煙たい話』

学校の先生とお花屋さんの元同級生が、「一緒にいると楽しい」だけを理由にしてルームシェアを始める話。

人にはうまく説明できない。友達とも家族とも違うし、恋でもない。聞かれたら戸惑う。いつまでそうやっていられるかは分からないし、誰かから何かを言われるかもしれないけど、それでも一緒にいたいので一緒にいる。そんな話。

 

1話で題意が明かされるんだけど、これがまずささった。引用。

「火のないところに煙は立たない」

「とはいえ煙だけを見て火元の正体が知れるわけでもないんじゃないか」

「その火がどんな色をして何を焼いたか ちゃんと近くで目を凝らさないことには」

「それこそ他人からすれば 煙たい話かもしれないけど」

当人たちにしか分からない、火元の話。

ごく個人的なことが、静かに営まれていければいいよねと思う。煙を見た人間が何を思おうと、火元で起こっていることは本当には分からないよなと。

 

マスコミュニケーションは乱暴が過ぎて、すぐにカテゴライズして変な名付けをして、それが煙しか見てない人たちに広まって。

たとえば私はいい部屋ネットのCMを断固として受け付けないけど、要はああいうことをして平気でその属性の人間を十把一絡げで攻撃してくるのだ。勝手にくくるな、放っておいてくれ。

って好き勝手言えるのは、いい時代になってきてるのかなと思う。

 

誰もが火元なのだという気がする。

それぞれの火元で何が起きているかなんて、火元にいる人しか分からない。

そういうことを肯定してくれる1巻だなと。これからどう展開するかは分からないけど、今のところとても好き。

好きにやりやすい時代だよなとは思うのだ。レールが決まってないから、自己責任だけど何してもいいというか。だからこそ人が何かを考えて何かを選んでいく過程を描いた作品が今、いいなと思ったりする。

ハラスメントとコンプライアンスバチバチに張り巡らされた今日において、自分の勝手気ままもまた守られている面もあるような気がしている。…気のせい?

岡本太郎『青春ピカソ』

タローがピカソに出会ったら。

岡本太郎からピカソ感じるよなあと思ってたら、岡本太郎ピカソを語った本が出てた。

語るどころか、スペインのアトリエまで行って会って話をしている。そのレポートまでもが載っている、これはもはや至高の1冊といっていい。

 

ピカソの絵は、キュビズムあたりから目に見えるものの描写の向こう側、ピカソが感じた世界の再構築へと向かっていく。

その画面は意味不明、ぐちゃぐちゃ、だけど、なんかある、存在している、のだ。

それ相応のエネルギーや存在感がそこに現れている。美しく整った絵よりもたしかになにかがそこに在るかんじで、熱量に圧倒される。

 

岡本太郎はかしこいので、ピカソのそういうところを言語化できる。

そして岡本太郎が会ってきたピカソは、まじめに絵画論を語ったりしない。自分の作品を見せて、岡本太郎の作品を見て、いいね、よくないね、と感覚的に会話するし、話題は自由に飛んでいく。イメージどおり。天才は蝶々の如くあってほしい。

岡本太郎は情熱の人なので、ピカソをこの上もなく尊敬しながらもぶっ壊して超えると豪語する。何作か読んできたけど、こんなにはっきり誰かへの尊敬を明言しているところを初めて見たかもしれない。それがピカソなのがどっちも好きな読者的にはたまらない。最高。

 

ファン垂涎の1冊、こんな素敵な本を生み出しておいてくれたのがありがたすぎる。

『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』

3月16日に公開する映画がロケ地の江南でお披露目先行上映されるということで、当日券で観た。

監督は井上淳一氏。

 

名古屋駅の新幹線口を抜けた繁華街にシネマスコーレという小さな映画館があり、そこが開業した時の話。

映画監督・若松(井浦新)が、自分の映画を上映する映画館を作るために名画座の営業だった木全(東出昌大)に支配人を依頼し、シネマスコーレが開業する。

愛知学院の映研の女学生・金本(芋生悠)が映画館のアルバイトに応募してきて、映画監督志望の高校生・井上(杉田雷麟)も映画館をたびたび訪れる。

 

映画に生きる人々のワンシーンを切り取ったような作品で、自称文字書きとしては映画作るのって大変だなあ、チームプレイを好き好んでしなきゃできないなあと思ったりした。

この映画で見せてくるチームプレイというのは、空気読んで仲良しこよしではなく、我が我がとどんどん出ていき主導権を奪い合う場面があり、いい画を撮るために邪魔なものには邪魔と容赦なく言い放ち、役者の機嫌をとりに行く、それでいて瓦解せず映画を作っていく集団だった。観ているだけで心臓が縮みそう。しかしながら、現代ではもはやお目にかかれない空気を味わえる。

この間職場でやくざみたいな人に電話でめちゃくちゃ怒られて、この映画のことを思い出して、感想を書くに至った。

数十秒続く怒鳴り声を聞きながら「あ…言うべき言葉がごめんなさいしかない…」と分かった時の絶望感と怒り。相手に「ごめんなさい」以外の言葉を許さない話し方っていうのが存在するんだなと身をもって体感した。ああ、パワハラ上司ってきっとこういう喋り方するんだろな…と。

若松監督は言葉が乱暴なだけで理屈は通ってて、よほど真っ当だけれども。熱量には通じるものがあった。

 

芋生悠演じる金本は、主な登場人物の中では唯一モデルのいない人物。当時の映画制作は男性社会で、金本が映研の他の男子学生のように振る舞って映画を撮ろうとしても誰もスタッフが集まらない。唯一来た先輩に「一回抱いたから来たの?」と言ったり、東京で打ちのめされた井上に苛立ちからキスをして挑発したりする。さらに彼女が「在日」であることも描かれる。

金本は作中で才能のなさ、女であること、在日であることを三重苦だと語っている。映画が撮りたくて映研や映画館に出入りしていて、男性のように振る舞っても人は集まらず、苛立ちから女を使う。日本で生まれ育ちながら、外国籍を持つ人物としての側面も描かれている。16歳になると指紋の登録をしないといけないし、本名で暮らしてもいない。

監督は自分が男性であり、日本人である(しかも実家は裕福で成績も優秀)ことで下駄を履かせてもらってきたと感じていて、その対照として金本を描いたという。

やくざみたいな人に怒鳴られたのも、外国籍の人の依頼に関わることからだったのだけれど、思い返すと外国籍の人がこちらの話す日本語をほとんど理解できていないようだった。向かい合った時点で私は日本語話者という高い下駄を履いていて、それに無自覚にカウンター向こうのお客さんと向き合っている。お客さんはカードという単語を聞き取ってよく分からないままカードを出し、希望する書類は出せないことがうっすらと分かるのだろう。その一方通行さは暴力的だ。携帯会社や保険会社の圧倒的な情報量で蹂躙してくるあの感じが私の想像しうる一番近いイメージだけれども、重ねて理解できない言語でそういう類の不安感を与えたのだと思えば、こちらもまた一方的に怒鳴られても仕方ないよなと思えてくる。

外国籍の人に無自覚に無造作に接して、傷ついていたということを彼らに近い日本人から激怒して伝えられるということが社会人になってから3回くらいはあった。怒る人がいるから気づくだけで、何も言わずに傷ついている人の数を想像するとぞっとする。

 

金本というキャラクターは、そういう日頃の無自覚さを照らす役割も担っている。周りは「別に何もしていない」のに、傷つく人がいるという事実がある。なぜ傷つくのか、理由は十人十色にあって、どうにもならないことも多いんじゃないかなと思う。最近よく配慮とか特権とか言われて息が詰まりそうなんだけど、自覚してない罪を糾弾されてる感じがしてしんどい気持ちは正直とてもある。

ただ、糾弾してくる相手は「お前のしんどさなんかどうでもいい、こちらの話を聞けよ」という切迫した思いで攻撃に来ているのだとも思う。人が安穏と暮らしているところに攻撃しにいくわけだから、それなりの批判や抵抗も覚悟しないとできないよなと想像してみたりする。そこまでしてしまうほど、追い詰められてるのでは、と思う。

攻撃には理由がある。それがいかに歪な出力だったとしても。他人への配慮なんて余裕のある人間だけができる話で、その余裕の定義もひどく曖昧だ。

 

自覚できないのはどうしようもないことだ。

数十年しか生きていないただのいち個体が、そんなちゃんとしてたら怖いじゃないか。

殴られてから「あれ、なんで自分今殴られたんだろ…殴られんのやだな…」と考えはじめるくらいの呑気さがないとやってらんないなと、申し訳ないけど今のところ思っている。

なんなら余裕がなければ殴られたことに怒り狂ったり一生許さなかったり反撃したりもしかねない。そう思うと殴る方もやっぱりリスクを負っている。

争いになればまだましで、一発殴って「ハイ傷害罪」ってそのまま風化することも多そう。

最近よく下駄論に遭遇するのだけれど、私はとりあえず「どうして殴られたんだろう」って考える方向性で行けるところまで行こうと思う。

 

劇中の井上青年も金本にビンタされてなんか思ったんだろうなという流れがあったし、常人にはこのあたりが落としどころではないかと思う。

 

この映画の感想を聞くと自分語りが始まると監督が言っていたけど、確かにわが身を振り返るような、わが身にリンクさせるような見方をしてしまう映画だった。

シネマスコーレで観るのも情緒あっていいかも。

『東京マグニチュード8.0』(アニメ)

湯浅監督の作品だと思ってたけど、湯浅監督作品は『日本沈没2020』の方だった。その事実に気づいたのは5話目くらいだったけど、5話まで観たらもう途中で止まれるような作品ではなく、今しがた全部見終わった。

 

2009年にノイタミナで放送された作品。

まずオープニングの被災した東京の緻密なスケッチに圧倒される。

 

あらすじについては、語ると蛇足になるので控える。観たら圧倒される。余計な再話をしたくない。

 

地震が繰り返し襲うことによって、最初は無事だった建物が崩落していく描写や、崩落によって生じる被害が生々しく描かれていた。

東京タワーも2日目には倒れてしまう。

レインボーブリッジも燃えて崩れ落ちる。

 

学校は避難所兼死体安置所になり、平時にはありえない数の人が死ぬ。家族も死ぬ。連絡もつかないから、生きているかどうかも分からない。避難してても揺れる。

ということがとてもわかりやすく描写される。

 

この作品が作られてから10年以上経つけれど、やはり東京タワーは倒れてしまうのだろうか。かつて都市を賑わせ人々に愛されたランドマークは、大勢の人を下敷きにして崩れ落ちるのだろうか。

 

こんな国に生きているんだよなあと思いながら。

それは他人事じゃなくて、明日にも自分の住む街に大きな地震が起こるかもしれないほどに、どうしようもなく避け難く、繰り返し起こる。

こんな国に生きているんだよなあ。

 

この作品を2009年にリアルタイムで観た人は、きっとフィクションの世界のことだと思ったのではないだろうか。私たちの世代は、阪神淡路大震災を経験していない。(生まれてたけど、遠くの大災害を認識できない程度に子供だった)

それからいくつもあまりにも大きな災害が起きた今観ると、フィクションじゃないんだなと思う。起こることも、人の気持ちも。

 

今年のブログが書き始められなかった。

この作品は今年の1月を物語ってくれる。

年始からなにもかもが崩れてしまった人がいる中で、何かを始められること自体がどれだけ贅沢なことなのか、噛み締めていた。

帰る家があることが、家族が生きていることが、当たり前じゃないんだよなと思う。

そういうことに鈍感にならずに、実にきまぐれに与えられている今を生きていく。

ヤマシタトモコ『違国日記』(完結まで)

あーなんでしょう。なんでしょうね。

こういう…

 

笠町さんの衛星の概念、「与えたのと同じものが返ってこなくていい」「少し離れてその人に関わっていたい」とこれはもはや一種の悟りの境地だなと。いつかそう思えたらいいなと思う。

 

朝ちゃんは「なんにもない」と言い続けるけど、それが自由であることの証になるとか。

「空虚」という言葉とともに朝の父が朝のまわりをただよい続けたけど、あの人はほんとうにどんな人だったのか。それはこの物語の主題じゃないから語られないんだけど、亡霊のようにかすんでいくけれど。娘に差し出された手を取らない父の心境とはこれ…いかに。明白な拒絶もしないんだよな、ただ突っ立っていた。どんなものを抱えた人間だったのか。人ってここまで空虚のごとくなりうるのか。空虚の権化みたいになっている朝パパのことを考えずにいられない中で、朝は空虚=なにもないことを自由の証だと思おうと語るのだ。

朝パパの昏さは、空虚以外の要素もあるのではなかろうか、どうなんだろう。

 

槙生ちゃんの愛してるでは言葉が足りないくだりはもう涙なしには読めない…これがこの物語の最終話。

これひとりの人間が生み出してると思うと鳥肌立つというか、もう想像したくないね…想像力がえぐいということなのか。

自分の想像力のなさに絶望する日々を通過して最近開き直ってきているどうしようもない私に突き刺さる年末の漫画体験だった。

他人のことは分からん、でも傷つけるのは違う、というのが最近の悩みなんだけど、人類の永遠の悩みってたくさんあるよね。

 

ううーん、たいへんよいものを読みました。

鴨長明『方丈記』

方丈の庵で日々は過ぐ。

 

『年収90万円でハッピーライフ』の著者が方丈記に絡めた書籍を出していたので、せっかくなら方丈記を読んでみるかと思い。年内に悪霊とFate/Zeroを読み切るつもりだったのに、割り込みの連続で来年に持ち越しの見通し。

 

鴨長明はなかなか不遇の人だったらしい。

生きているうちに京都の市中が燃える大火に家々が巻き上がる風害、何年も続き屍の山を築いた飢饉や大地震を目の当たりにしている。

当人もあの下鴨神社禰宜の子として生まれながら、禰宜には別の親戚が就いてしまい、家も出されて熱心に取り組んでいた和歌の仕事も辞めて山奥に方丈の庵を結ぶに至る。

大きな家屋も地位も名誉も手にしないまま住まった小さな家で、散策をしたり歌を歌ったりしてささやかながらも穏やかな日々を過ごし、生涯を終えた。

 

これが方丈記の内容で、あとは現代語訳した方の論説や原文などが載っている。これがまた、世を捨てて仏道に励む人のように見えて、俗世のことをちらちらと気にせずにいられない鴨長明の姿を浮かび上がらせてくれておもしろい。

個人的には飢饉の描写が衝撃で、飢えて家々を訪ねる人が次の瞬間ばたりと死んでしまったり、河原に並ぶ死体が何万とあったり、家を壊して薪を作っても1日分の食料も得られない想像もつかない地獄絵図が描かれている。

東日本大震災の犠牲者が2万人くらいだから、ああいう悪夢のような現実が平安の昔から繰り返されてきたのだなあと。そう思うとまず自分の住まいが今に至るまで災害に遭っていないことが幸運だよなと思ったりする。

 

方丈の住まいでの暮らしぶりの描写は、のどかでほのぼのとしている。小さなスペースで日々をおもしろく営んでいく姿は、想像すると心が和む。

いくつもの無念を重ねてたどり着いた終の住処なのかなと思う。