ピカソ展を観に行った。
ピカソの絵なんて1枚も分からないんじゃないかくらいに思ってたんだけど、ミロ展で既に1枚も理解できないという経験をしていたので、望むところだった。
この世には何が描いてあるか全く理解できない絵というのが結構ある。世界は広い。
若い頃のピカソは、リアルで存在感のある青っぽい絵をたくさん描いている。
バーで婦人が二人並んでいる絵が、肉感あって好きだなと思った。
この画面から溢れそうな存在感はそのままに、年を経るごとに手法が変わっていく。
ものを構成するパーツを再構築するキュビズムという手法が有名だけど、この再構築して世界を捉えていく手法はある程度シュルレアリスムにも通じているのだと思う。
近年私が興味を持ってやまない分野だけど、ピカソの絵を見てたらくっきりと再構築というテーマは理解ができた。
しかし巨匠の腕をもってしても…人ひとりの頭の中で再構築されて提示された世界は、他人にはわからない。
共通認識というものの巨大さと強さを再認識する。他人の目に見えていないもの、感じられないものを示すことがいかに難しいか、そしてその挑戦のいかに価値のあることか。
わけのわからんものがあると知ることそれ自体が、世界を広げることにならないか。と私は思っているけど、まあそう思わない人も結構いる。難しいのだろう。
女性の寝姿を描いた作品が会場に何枚か展示されていたけど、生々しいものから完全に記号化したもの、肉感を残したものと同じ人が描いたとは思えないくらい違っていて、ひとりの人間が生涯でこれだけ変身できるのかと思うと人生って楽しいよなと思う。
私がこれからも作文を続けていけるとしたら、与えられた柔軟性と無駄にある度胸を動員して、そういうことを発信していけるのかなと思っているけど、往々にしてかっこいいと思うものと自分の選べるスタイルは違うもので、10年後にはあれー?おやー?と言っているかもしれない。けれど、たぶん世の中に迎合したら自分の中で作文する価値がなくなるみたいなので、読まれなくてもそれだけはしないと思う。とピカソ作品を観た勢いで考えたりした。