あまりに個人的な風景が紡がれていく。
どうしたらあんなにつまらない街ができるのか、と育った街をこき下ろした今は亡き「直子」と、4年後にその街にある駅にいるという犬を見に行った「僕」。その4年間の間に「僕」は友人と翻訳業を始めて、家には双子が住み着いていた。
配電盤の水葬、78台のピンボール台の死と再生のシーンは幻想的で圧倒的な印象を受ける。
それがなんなのかは分からないんだけれども。
私は何を読んだのだろう、と思いながら2回目を読み始める。何度読んでも不確かでつかみどころのないものなのかもしれない。
それはどこかへと歩いていく彼らのあいまいさとリンクするのか。いわく、歩いてきたはずなのに不確かで「おそらく」な過去から、「おそらく」な未来へと、今をただ通り過ぎながら。